ふと気づいたこと。。
ここ2,3年、人生で一番学びへの意欲が高いです。
意識高い系ではありませんが、必要を感じるからしています。
積読なんて言葉もありますが、ここ2年は無く
(それまでは多かったです) 即読です。
時々、脳内はスタックしてますが、とりあえず読む。
眼を通すというのも含めてですが、積読はほぼ無し。
知識が浅い・狭い状態はヤシの木が生えた無人島だなと
他の島に行こうとしても手段もなく、単独で存在するしかない。
〇〇学と〇〇学が繋がらず理論は無駄・疑問に感じてしまう。
これが広がる・深まると木々が増えたりして、隣の島へも
いかだで渡れるようになり、島同士が繋がりを持てるようになる。
それぞれがリンクして学ぶ意味が分るようになるイメージ。
これが知識が広がる事で、どんどん島が発展し、行き来するのも
イカダから高速・大型化された船になりといったイメージですね。
どんどん繋がり、身体の機能と構造が繋がっていく。
これが繋がりだすと学ぶ意味が分ってくるので、より進む。
今正にそんな感じです。楽しいというよりも面白い。
40歳前に今更感が無い訳ではありませんが、学びの場で繋がれた
若手の方々と関わる中で今まだ進めているように思います。
ここは観ないでしょうけど、学びの場を提供くださるK先生と
同様に常に感謝しています。
技術主体だと『提供内容で良くなる』となりがちで、
『なぜ?』に目が向きません。受ける側ならそれで良いですが、
提供側が分かっていないのは致命的だと思っています。
団体所属していた頃が正にそうでした。関節を動かすといった表現をはじめ、
身体の中の話が分からずにアプローチ中心でした。何となくは分かっていても
先に進むと技術と理論が一致していかない。得も言われぬ感覚でした。
細かい話の割に技術は雑といった印象でしょうか。
神経圧迫を重視して脊柱と繋がっている筋肉の関係は見るのに、
痛みを感じる部位から負担を掛けている部位へは目を向けない。
背骨の代償は考えても、OKC,CKCといった運動連鎖は見ない。
↓↓
でも、一過性であれ痛みがおさまっているから良しとする。
そんな環境なので・・・
施術しながら、修正していく過程が考えられないのはおかしいと
なり、月1回通う勉強会で症状に対しての技術を提示される、
技術といってもフォームばかりに拘ることに疑問しか感じませんでした。
「上手になった」と言われても『何が??フォーム??』と
不安・不満こそあれ自信なんか持てませんでした。
クライアントさんから『楽になった』と言われる度に「何で??」
と良くなる理由もわからず、申し訳なくて困っていました。
分かり易さは大切だと思っていますが、そこで全く違う意図になるなら
書かないor分かりにくい表現のまま書いています。後々、分かり易い表現
が判ったところで分かりにくい表現は書き直しています。
少しずつですが、手直しもしています。